自己紹介②|noteを更新しました

※この記事はnoteから引用しています。


みなさんこんにちは!中小企業診断士のよこたです。

先日、診断士仲間と飲んでいたら、私の自己紹介の続きを気にしてくださっている方がいました。
そこで今回は、自己紹介シリーズの第2弾「ウズベキスタン編」をお届けします。

新卒で飛び込んだのは、在ウズベキスタン日本大使館。
右も左もわからないまま、24歳で始まった海外生活。
気づけば270㎡の豪邸に住み、現地の人と笑い合い、時には食中毒にもなりながら(笑)、この2年間で「行間を読む力」と「順応力」を鍛えられました。

診断士としての今の自分をつくった原点でもある、あの頃の話を少し振り返ってみたいと思います。

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目次

新卒でウズベキスタン

大学院の修論を提出して、卒業前の2011年2月22日。就職先のあるウズベキスタン・タシケントに向かいました。

「ロシア語を使って仕事をしたい」「外交官になりたい」という思いで勝ち取った、在ウズベキスタン日本大使館・専門調査員のポスト。
社会人1年目。初めての一人暮らしが、いきなりウズベキスタン。

右も左もわからないまま、マイナス12℃の気温に迎えられて、私のタシケント生活がスタートしました。

24歳、豪邸に住む

最初の1週間ほどで、家探しや銀行口座の開設など、生活の立ち上げを行います。

ウズベキスタンの物価はめちゃくちゃ安いけど、外国人向けの物件はやたら高くて現地の方の年収にも匹敵することもしばしば。その分とても広く、豪華なアパートやプール付きの一軒家を借りる人もいます。

気づいたら私も、不動産屋さんに紹介してもらった270㎡のメゾネット式アパート(しかも7〜8階全て自宅)を契約してました。寝室が2か所、バスルームが3か所、キッチン・ダイニングと客間がそれぞれありました。ここに新卒・24歳で一人暮らしです。ふざけてますよね。

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主寝室。ベッドが大きすぎてシーツの丈が足りませんでした。
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エントランス。アパートなのに中に階段があってみんなに驚かれました。

こんな広い部屋ひとりで掃除できないので、お手伝いさんを雇っていました。また、通勤や買い物をするのに専属の運転手も雇いました。どちらも個人で(自腹で)契約します。当時の大使館ではこれが普通でした。

政治が不安定で、治安の面を考えると良いエリアに住むことが推奨されていたとはいえ、日本から来た友人たちは揃って「ただの豪邸じゃん!」と言っていました。

渡航直後に東日本大震災

タシケントに赴任してわずか3週間後の2011年3月11日。
東日本大震災が起きました。

私の地元ではすぐ停電になって何が起きていたのかリアルタイムでわからなかったそうですが、大使館ではNHKの衛星放送がずっと流れていました。地震速報。津波警報。津波の映像。原発事故の速報。

家に帰ってロシア語やウズベク語のニュースで流れてくるのも、津波の映像ばかり。

でも、ニュース映像だけでは日本が、日本にいる人たちが、実際何に直面してどんな気持ちでいるのか、全くわかりませんでした。

大使館ではまもなく「弔問記帳」の受付が始まりました。日本での不幸を知って、涙を流しながら弔問に来てくださるウズベキスタンの人々に胸を打たれながら、私はどこか自分だけ取り残されたような気持ちになったのを覚えています。

数か月後、友人からは「あの時期は大変だったから日本にいなくて良かったよ」と言われましたが、私は正直な気持ち、「日本人として、あの日、日本にいなかったのが少し残念」と思っていました。

大学院の卒業式に合わせて一時帰国する予定でしたが、大学のある地域も計画停電の対象になり、卒業式自体が中止に。

それならばと、しっかり仕事をして、プライベートも楽しんで、次の帰国日まで頑張ろうと決意しました。

ひたすら情報収集能力を磨く日々

私の担当は、ウズベキスタンの経済に関するロシア語のニュースを翻訳・要約して「週報」にまとめることがメインでした。当時は現地のネット環境が悪く、政権に批判的なサイトはプロキシサーバーを経由しないと見られないなど、情報収集にすごく時間がかかったのを覚えています。

政府系の新聞・テレビやネットのニュースにはきれいごとしか書いてないので、その裏事情がわからない。上司(大使)の口癖は「行間を読むんだ!」でした。でも、赴任当初の私はその感覚もなかなか掴めずにいました。

言論の自由が制限されている国で、貴重な情報源となったのが「現地の人の口コミ」です。私はほぼ毎日定時で帰っていたので、週に2〜3回ロシア語の個人レッスンを受けていました。

ウズベク人の先生に、
「〇〇のニュース、どう思う?」
って話題を振ると、
「私から聞いたって口外しないで欲しいんだけど…」
と前置きをしながら、現地の人しか知らない情報をたくさん教えてもらいました。

また、運転手さんにもウズベク人の生活、慣習、流行、話題のイベントなど、いろいろな話を聞かせてもらいました。身近な人が語ってくれるリアルな声があったからこそ、現地の事情が理解できるようになりました。

ウズベク人って、街で出会う人もみんなみんな人懐っこくて優しいんです。
(意地悪してくるのは警察官とか国家権力側にいる人たちだけ。※私調べ)

「週報」に載せることはできないけど、現地の方々のおかげでニュースの読み取り方が変わって、情報収集能力を磨くことができました。

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サマルカンドで出会ったおばちゃんたち。みんな人懐っこくて優しい。

旅行と習い事と食中毒と

仕事以外の思い出は、旅行と習い事と食中毒(!)です。

私がタシケントにいる2年間、友人がたくさん遊びに来てくれました。その度にサマルカンド、ブハラ、ヒヴァなどの世界遺産の各都市を案内しました。

いちばんのお気に入りは、ウズベキスタン西部にあるヒヴァ。街に入った瞬間、「ドラクエの世界…?」と思うほど、いきなり没入感がやってくる幻想的なリアル砂漠の街です。
世界35か国旅した私がダントツでおすすめしたい観光地です。

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ヒヴァってこんなところ。映画のセットみたい。

ロシア語のレッスンのほかに、習い事もたくさんしました。

スポーツ系では、乗馬。当時の物価で1時間900円くらいでトレーナーに乗馬を教えてもらっていました。砂浜のトラックをゆっくり走るところから始めて、数か月経つ頃にはギャロップまでできるようになっていました。

ウズベキスタンは年間の寒暖差が激しく、夏は40℃超の酷暑、冬はマイナス10℃以下まで下がるので、乗馬は春と秋しか習えなかったのが残念です。

音楽系では、プロのオペラ歌手に声楽を、プロの楽器演奏者にウズベキスタンの民族楽器「ナイ」(2本加えて吹く縦笛)と「クシナイ」(フルートみたいな横笛)をそれぞれ習っていました。

クシナイのケースは市場の木彫り細工職人さんに特注で作ってもらうほど、プライベートをかなり楽しんでいました。

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ウズベクの民族楽器「ナイ」と「クシナイ」。クシナイのケースは特注。

ウズベク料理も美味しかったです。アジア系の味なので、日本人の口に合うと思います。

トマトベースのスープに入ったウズベク風焼きうどん「ラグマン」(ラーメンの語源になったとか)や、羊肉と野菜を油で煮込んだウズベク炒飯「プロフ」(ピラフ)などが有名です。

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ヒヴァのご飯。ピーマンの肉詰め、ナン、ピラフ

そう、とっても美味しいのですが…油断するとすぐお腹を壊します。遊びに来てくれた友達も、旅行中にもれなくトイレとお友だちになってました。
私は2年間で重めの食中毒に3回かかりました

物価が安くて食べ物も美味しいけど、衛生事情にだけは慣れなかったです。

今のキャリアにつながったこと

ここまでプライベートメインで書いてしまいましたが、ウズベキスタン時代の経験で中小企業診断士としてのキャリアにつながったと思うことは3つあります。

1つ目は、公務員としての働き方
先ほどの「週報」は、自分で作った原稿を決裁ファイルに入れて回覧して、同僚や上司がチェックして修正して、大使の決裁が入って返されます。

公的機関が出す書類は、言葉づかいに気を配らなきゃいけない。その上、いろいろな人の決裁を経るうちに冗長な文章になってしまう。こういった独特な事情を知って、行政文書にも慣れた経験は、その後の補助金支援などですごく役に立っていると思います。

2つ目は、情報収集能力
大使館時代は専門調査員=Researcherという肩書きだったので、気になることはなんでもすぐに調べる癖がつきました。

ネットの情報が当てにならなかったので、人に話を聞いたり複数の情報源を比べたりして、知りたいことがわかるまでとことん調べる執念深さみたいなものは、企業のヒアリングや事前準備でも活かせています。

3つ目は、順応力
日本語も英語も通じない環境に1人で行って、(大使館の人たちにだいぶ助けてもらったけど)仕事もプライベートも全力で楽しむ。

「郷に入っては郷に従え」の精神で何でも吸収して自分の置かれた環境に適応する能力。そしてその中に楽しみを見出す力は、未知の業界や新しい支援のお話をいただいたとき、「まずやってみよう」と思える原動力になっています。

まだまだ海外生活は続く

こうして私の“ウズベキスタン編”は幕を閉じます。診断士とは関係ないようで、私のキャリアの根っこにある経験となりました。

ウズベキスタンでロシア語ばっかり使っていたら英語が全く出てこなくなってしまったので、この後アイルランドの語学学校に半年間留学することになります。

そして、今度は「英語とロシア語が使える国に行きたい」と、在ラトビア日本大使館の専門調査員になります。

私の海外生活は、もう少し続くことになるのです。

(次回へ続く)

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次回もお楽しみに!
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