自己紹介:中小企業診断士になる前の、夢と挫折と海外の日々|note記事を更新しました

※この記事はnoteから引用しています。
中小企業診断士としてnoteを書き始めて半年。フォロワーさんも少しずつ増え、定期的に読んでいただけるようになりました。そこで今回は、私が診断士になる前の歩みを、改めてご紹介したいと思います。
その原点は、高校生のときに初めて耳にしたロシア語の響き。あの瞬間から、私の人生は大きく動き出しました。外交官を目指して走り続けた日々、二度の不合格、そして就職難…。
遠回りをしながら、海外で働く夢を叶えました。その経験が、今の私の“キャリアの始まり”につながっています。
幼少期:にぎやかな7人家族で育った私
1986年生まれ。3人兄弟の真ん中です。4歳まで東京・品川の戸越銀座商店街のすぐ近くに住んでいました。
5歳のとき両親が神奈川県相模原市に二世帯住宅を建てて、社会人になるまでそこに住むことになります。

引っ越した当時は祖父母・叔母・両親・兄・弟・私の8人家族。友だちが遊びに来るのはもちろん、地域の行事があると近所の人たちがうちに出入りしていたため、常に人の声、電話の音が絶えない家でした。私が世代の違う人たちと抵抗なく話せるのは、育った環境によるものが大きいと思います。
兄と弟に挟まれて育ったので、学年の違う子たちと遊んだり、ケンカしたりしていたのを覚えています。今ではすっかり落ち着いてしまったけど、ときどき夫に指摘される”ガサツなO型らしい性格”はこのとき形成されたのかもしれません。
小学校・中学校では学級委員をやったり、生徒会に入ってみたり。人前に出ることと勉強が好きな優等生タイプでした。
この頃の特技は6歳から始めたピアノとタイピング。中学では吹奏楽部に入ってクラリネットを担当し、中3の夏まで部活をやりきって都内の私立高校に進みました。
高校時代:運命の言語と出会う
国際教育に力を入れていて、制服が可愛かった高校。けっこう受験を頑張って入ったので、周りの友達がめちゃくちゃ優秀でした。
高校でも吹奏楽部(ブラバン)に入って、3年間朝練・昼練・夜練を続けました。
まじめで、努力家で、尊敬できるブラバンの仲間たち。今では弁護士になってバリバリ働いている人、副業で起業して出版してXのフォロワーが数万人いる人、海外の大学を卒業して日本で研究者になった人などがいます。ぜんぶ同学年の女性です。
そんな仲間たちに刺激を受けながら過ごしていたある日、私の人生の転機となる出来事が起こります。
高校に、ロシア人宇宙飛行士の方が講演に来てくださったんです。
大きな講堂で初めて聞いたロシア語。
「なんて美しい響きなんだろう!」と感動して、いつか自分も話せるようになりたい、と思うようになりました。
またその後、高校のキャリアガイダンスで外交官になった卒業生の話を聞く機会がありました。
日本の代表として、外国語を駆使して、外交交渉も、通訳も、文化交流もなんでもやる。
まさに自分がやりたい仕事だ!と思って、
「ロシア語が話せる外交官になろう」
と決意しました。
それから私立大学に推薦で入学し、ロシア語を学び始めます。
大学時代:外交官を目指す
大学時代は部活・サークルには入らず、1年生からロシア語と国家試験(外務専門職試験)の勉強をしていました。
2年生でロシアのモスクワ大学に1年留学。
ロシア人って他人に冷たいので、最初の頃は見知らぬおばちゃんに何度も怒られてロシアが嫌いになりかけましたが、だんだん話せるようになると楽しくなってきます。結局、留学期間を延長するくらいロシアが好きになっていました。
留学初日は空港で話しかけられても「私いまルーブル(現地通貨)持ってません」すら言えなかった私でしたが、ロシア語でケンカできるくらいの語学力をつけて帰ってきました。
(ロシアってこんなところです↓最後に行ったのは2020年)
留学から戻った大学3年から、公務員試験予備校の早稲田セミナー(今のTAC)に通い始めました。大学の授業もあったので、ダブルスクールです。
当時は、憲法・経済学・国際法の3科目記述式試験と、外国語(英語もしくはその他から選ぶ。私はロシア語)の筆記と面接、時事問題の筆記、数的処理・人文社会のマークシート試験をすべて受ける必要がありました。毎日6〜10時間くらい勉強していたと思います。
(余談ですが、中小企業診断士の試験対策でTACに通った際、早稲田セミナーの履修歴があったので再チャレンジ割引が適用されました。しかも、診断士試験科目でもある経済学は、大学時代の知識を思い出すだけだったのでかなり楽でした。)
就活しながら予備校に通っている友だちもいましたが、私はどうしても外交官になりたかったので試験までは勉強に集中。
4年生のとき無事1次試験は合格したものの、2次試験(最終試験)の面接で不合格となってしまいました。
ここまで打ち込んできた外交官の夢を諦められなかった私は、大学院に進学して、再度受験することにしました。
大学院時代:人生最大の挫折を味わう
2年目となると模試での成績も良く、ぜったい受かると思っていた私。
ところが、2度目の受験も2次試験で敗退。
すぐに就活を始めましたが、気持ちが切り替えられないし、「学生時代に頑張ったこと=ロシア語と外交官試験の勉強」ってあまり良いイメージを持ってもらえず、なかなか前に進めません。
しかも、2011年卒はリーマンショック後の就職難の時期で、文系の院卒は歓迎されませんでした。大学院の研究のモチベーションもかなり下がっていました。
さらっと書いてますが、当時はストレスからなかなか眠れず、食べ物が喉を通らない状態。体重が42〜43kgほどまで落ちて、1食でおにぎり半分食べるのがやっとでした。
2度の受験で不合格となり、就活もうまくいかず、人生最大の挫折を味わっていたんです。
そんな中、ゼミの教授の紹介で始めた「ロシア語を使うアルバイト先」で、ロシア語に関する情報がいろいろと入ってくるようになります。
その一つが、日露青年交流センターの専門家派遣プログラム。他の大学の大学院に通う学生たちと一緒に、ロシアに派遣してもらう機会をいただきました。

私以外、全員国立大の院生。
みんなの研究欲に圧倒される5日間を過ごし、
「やっぱりロシア語が好き!」
「ちゃんと大学院の研究も終える!」
「どうしても海外で働きたい!」
という気持ちが大きくなり、海外の日本大使館・領事館で働く「在外公館専門調査員」の試験を受けることを決意します。
専門調査員の公募資格(当時)は、大学院卒か卒業見込みであること。試験は、語学の筆記試験と面接試験、在外公館の担当分野に関する論文試験です。
そのとき公募があったロシア語で受験できる公館は、ウズベキスタン・カザフスタン・タジキスタン・ジョージアの日本大使館でした。バイト先で中央アジアの政治・経済ニュースに触れていたので、私はウズベキスタン大使館を第一希望にします。
専門調査員の語学試験は、外交官試験向けに時事問題の日露・露日通訳の特訓をしていたので楽勝。論文試験は、これまた外交官試験で培った記述式回答の組み立て方が染み付いていたので知識補充のみでクリア。
晴れて在ウズベキスタン日本大使館の専門調査員となって「外交旅券」をもらい、だいぶ遠回りしたけど「外交官と同じ仕事」をすることになったのです。
これが、今につながる“キャリアの始まり”でした。
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